【森のエッセイ】No.4 亡き父と八ヶ岳

GWに久しぶりに信州に帰郷した。

連休前半だったので、天気にあまり恵まれなかった。

それでも雲の切れ目から八ヶ岳の峰々が見えた。

 冬の厳しさはなかったが、山頂付近にはまだ雪がたくさん残っていた。

 山頂付近はまだ選ばれたクライマーたちだけが近づける季節。  


八ヶ岳にはたくさんの峰があるが、どの峰(山)が好きかは、人それぞれ。それは同じ人物でも変わる。僕は昔、主峰の赤岳(2,899M)が好きだった。その後、30歳前後、ピークらしいピークのない「森の彷徨」という言葉が似あう北八ヶ岳に惹かれ、一人でよく歩いた。


 そして、今は南八ヶ岳の「編笠山」(連峰南端)がいいと思う。 その名の通り、編み笠を伏せたような形の山。南八ヶ岳はどの峰々も岩場の露出した急峻で険しいシルエットをしている中で、その穏やかなラインは異質でさえある。その分、どこか愛嬌があり、人懐っこい山というイメージ。この峰だけ「岳」でなく「山」となっているのもそのせいだろうか(実際、この山だけは車道が割と近くまで延び、日帰りも可能だ)。 


主峰の赤岳には計10回登ったことがあるが、編笠山は2回だけ。それでも、最近、この山に惹かれている。学生時代、仲間とここで2泊3日を過ごしたせいもあるかもしれない。滞在時間では一番長い。主役級の赤岳にはない、一歩引いたところが好きなのかもしれない。帰郷した時、中央道からも、JR中央線からも最初に出迎えてくれる山だからかもしれない。


 父を13年前、癌でなくしたが、入院先だった諏訪中央病院は見事なほど八ヶ岳がよく見えた。病棟がちょうど南北に走る連峰に正対するようにつくられていて、最上階の食堂フロアからの眺めは圧巻だった。南端の編笠山から北の蓼科山までが実によく見渡せた。ただ、僕には銭湯の富士山を見るような気恥しさがあった。  


父親がターミナルケアの病棟に移り、せいぜいあと数週間だと医者には言われていた。普段は東京にいたが、週末ごと見舞いに帰郷した。ただ、母親も付き添っているし、父親はとても気軽に喋れる状態でないし、病中閑有ではないが時間を持て余してしまっていた。  

だからと言って、実家にいても落ち着かない。 

ふと無性に、八ヶ岳を撮りたいと思った。 

一番右端の山が「編笠山」。中腹に「上り鯉」「下り鯉」の雪形が見える。


2月中旬。この地方の一番寒さの厳しい時期だ。

マイナス20度近くに冷え込むこともある。観る人さえ凍えるような、そんな八ヶ岳を撮りたいと思った。 父親はこの山麓で生まれ、一度もこの山麓を離れることはなかった。 

生涯で何度あの峰を見上げて生きてきただろう。  


あの病院から見える晴れ晴れとした八ヶ岳ではなく、もっと陰影のある、今の僕にとっての八ヶ岳。世界の何もかも凍らせて、体の芯から凍えてしまいそうな八ヶ岳を撮りたかった。写真家人生で最も凍えてしまいそうない氷点下の写真が僕には必要だった。



 ハッセルブラッドにネガフィルムを入れ、夕暮れが近づくのを待って山麓に車を走らせた。日が沈んでもまだ撮り足りなかった。

西の空に夕焼けの残照が横岳の雪を紅く染めた。枯れ野を一人歩きながら、三脚も持ってこなかった僕は、ブレないように一人息を凝らしてシャッターを切った。 


世界中が凍ってしまうようなシャッター音。 

父親は今頃、あの山麓の病室でなんとか息をしているはずだ。 

そんなことを思いながら、僕は誰にも頼まれたわけでも、誰にも見せるわけでもない写真を

零下の雑木林を歩きながら僕は撮っていた。 


自分の気持ちを落ち着かせる術を僕はほかに持っていなかった。 

写真はいい。

誰も知らない場所で、誰も知らない時に、

自分でさえ撮りたい理由が分からないまま撮れるんだから、と思った。  

小さな森暮らし。週末の八ヶ岳から

写真家小林キユウが週末遊牧民の日々を写真と文章で綴っていきます。