【森のエッセイ】まずは八ヶ岳とのこと ~2~

前回の続きです。

 大学にギリギリ潜り込み、上京した僕は、ほとんど途方に暮れていました。単純な話、それまで東京に来たことがなかった。そして、東京がこんなに大きな街だとは思っていなかった。(笑)。そして経済学部に入ったものの、そもそも何を学ぶところか知らなかった。  田舎だと、普通に歩いていれば、世代問わず必ず知り合いに合うものだが、東京では絶対に知り合いに合わないことが驚きだった。


「新宿」「渋谷」という街は地方の高校生でも、もちろん聞いたことはありましたが、さすがに山はなくても街の街の間は途切れているんだと勝手に思ってました。でも実際は街ががっちりつながっていました。街の密度の濃さにすっかり酔ってしまいました。

 

すぐにバイトを初めました。

 人生、まずは皿洗いから、という変な思い込みがあり、最初のバイトは大学の学生課の掲示板にあったホテルの厨房の皿洗いでした。皇居近くのパレスホテル内にある日本料理店。おかげで猛烈な速さで皿洗いの技をここで習得しました。ゴミ出しも時々したのですが、生エビの殻がポリ袋から破り出て、運悪くそこに触れると指を切ってしまった。絆創膏を初めて自分で買ったのは東京でした。 


大学、バイト、そして下宿生活の繰り返しが始まろうとしていました。 そんな時、大学の図書館の階段に手書きのポスターが貼ってありました。「バックパッキング同好会 新入生募集 月に一度は森の中」と大きく、マジックペンで書いてありました。バックパッキング、そうか、バックパッキングか‥。この言葉に反応したのには理由があります。高校時代、一番熱心に読んだ本「バックパッキング教書」(田渕義雄著)の存在でした(ちなみに同書は発刊30数年経て現在も版を重ねている歴史的名著です)。 


1カ月後、季節は6月始め。僕はバックパッキング同好会の新人として、八ヶ岳に向かっていました。早朝、中央線小淵沢駅を下車し、そこから同山脈の南端にある編笠山をまずは目指しました。懐かしい風景でした。編笠山は実家周辺から一番よく見える山。田植えの時期には「昇り鯉」「下り鯉」と呼ばれる残雪のカタチができる山でしたが、その残雪は消えていました。

長いアプローチの末、夕方、青年小屋のキャンプ場に到着。テントを張ったり、夕食の準備など大忙し。そのころから雲行きが怪しくなり、雨が降り出しました。翌日は権現岳を経て、主峰赤岳を目指す予定だったのですが、パーティー内の同期新人が体調を崩し、テント場で停滞することになりました。もう一つのパーティーは雨の中、雨を吸って重くなったテントを背負って赤岳を目指して出発していきました。 


雨も激しくなり、僕らのパーティーは2日間、テント内で過ごしました。 寝袋や衣類をはじめほとんどすべてものが濡れるか、じっとり湿気を帯びていました。若さもあったのか、まったく苦痛ではありませんでした。むしろ、あぁこのままずっと山の中にいたいな、とさえ思っていました。東京のことは分からないけれど、山の強風や雷でさえ、僕には昔から慣れ親しんだよく知っている世界の一つでした。 

学生時代から長年使っている山やキャンプ用のナイフ。本来はノルウェイの漁師が使うナイフで、海に落としても浮かぶよう持ち手が大きくなっている。大学時代に池袋西武百貨店で北欧フェアをやっていて、そこで見つけた。当時の北欧フェアは現在のシンプルなインテリなどでなく、ラップランド人などの民芸品に焦点が当てられたものでした。この時、トナカイの角で彫ったキーホルダーも買ったのですが、いつの間にかなくしてしまいました。



そして、大学生の自由さに改めて驚いたのもこの時。平日の数日、授業をさぼって山に来ているのに、誰にもとがめられない。周囲の人間も、まったく後ろめたさがないどころか、サークルの当然の活動として受け止めているのが新鮮でした。

山っていいな。 上京したはずの僕は、気が付けばまた八ヶ岳に救われていました。


3泊4日の八ヶ岳合宿はほぼ雨のまま終わりました。 翌日朝、僕はまたいつものようにラッシュの京浜東北線に詰め込まれ、バイトに行きました。いつもの日常が始まりましたが、数週間後、一つの異変がありました。新入生9人のうち、なんと5人が退部してしまったのです。  


最初の合宿が雨だと、やめる新入生が必ず出る、というジンクスは聞いていましたが、僕にとってあれほど解放感と自由に感じられた合宿が、苦痛で仕方なかった者が少なからずいたことがショックでした。逆を言えば、僕が東京で感じている苦痛は、他者にとってそれほど苦痛でもないことなのかもしれない、と気づきました。 


山と東京。 

そのバランスは自分の中で意識して取っていくしかないんだと実感しました。 

小さな森暮らし。週末の八ヶ岳から

写真家小林キユウが週末遊牧民の日々を写真と文章で綴っていきます。