【森のエッセイ】まずは八ヶ岳とのこと ~1~

後ろ姿は窓二つ。内部には二段ベットがあり、ぬくぬくの毛布にもぐり、寝っ転がりながら森を見ていられるフランス人によるデザインです。

【まずは八ヶ岳とのこと】 ~1~


僕にとって山は二種類しかない。 

 八ヶ岳と、八ヶ岳以外の山。


 小中、高校といつも教室の窓から八ヶ岳が見えていた。自宅2階の勉強部屋からもやっぱり見えていた。 


 一番、見ていたのは高校時代だったと思う。地元ではそこそこの県立進学高校だったが、僕はすっかり学習意欲をなくしていた。 親の顔を伺っていると、どうやらうちの経済状況では大学進学は無理そうだし、かと言って就職したとしても、きっとそれはクラスでは俺一人だろうし、、。何もかもちゅうぶらりんで、完全に目標を失っていた。高校は窓のすぐ下から諏訪湖が広がり、その向こうになだらか裾野を持つ八ヶ岳ばかりを眺めていた。黒板よりも、窓の外を見ていた時間の方が本当に長かったのかもしれない。いつも遠くを見ていた気がする。


 中学生まで視力はずっと1・5だったのに、高校生になってなぜか2・0になった。担任から面談の時に、「小林、これは本当に勉強のしなさすぎだと先生は思っている」と本気で諭された。「でも、今の俺に勉強する理由ってもうないし」。心の中だけでそう思うだけだった。実際、成績はバブル崩壊後の株価のように面白いように下がっていった。 入学時は中の上だった順位は、3年の時は320人中、300番代まで落ちたが、何の焦りもなかった。感慨もなく、いつも他人事のように思っていた。 親も成績にはまったく興味がないようだった。


 勉強、クラブ活動もしていない高校生。そして将来の目標も特にない高校生はとにかく暇。そんな時に唯一、僕と本気に相手になってくれたのが、八ヶ岳だった。 無気力ではあるが、そこは高校生、肉体だけは若い。田渕義雄の「バックパッキング教書」、植村直己の一連の冒険書の出会いから、山に夢中になり、のめり込んだ。バイト代は全て山道具か、釣り道具に変わった。 



バイト代で買った山道具の一つ、スウェーデン製のソロ用のガソリンストーブ「オプティマス8R」。これさえあればどんな山奥でも暖かいスープやインスタントラーメンが食べられた。この青いボディを今見ると、高校生の自分を思い出して、どこか切なくなってしまう。


 ひとつ、幸運だったのは、たまたま生まれ育った場所が八ヶ岳山麓だったこと。 数百円のバス代だけで八ヶ岳の登山口にアプローチできたし、下山時は勢いついでに自宅まで歩いてしまったこともあった。 自己流だけど何度も八ヶ岳に入り、主峰を極めたり、北八ヶ岳の森を彷徨い、道に迷って遭難しそうになったり、初冬の壁面で滑落しそうになったりしていた。 


 山と釣りだけが救いだった。 教室から、そして、自分が無気力な高校生であることからもエスケープできる気がした。 登山や釣りは、一応はスポーツのジャンルにくくられてはいるが、ギャラリーが一人もいない。順位もない。こんなスポーツほかにあるだろうか? この人知れず全てが完結するところが、最高に気が利いていると思った。高校の担任やクラスメートの多くは僕が山にはまっていることなど知る由もなかった。 


 高校3年の2学期、就職しようと郵便局の試験を受けたが落ちた。3学期、家族会議で最後の最後に進学することになり、上京した。山の見えない東京で自分の視力が落ちたのかそのままだったかは、検査の機会がなかったのでわからない。ただ突然、山のない空間に放り込まれ、平衡感覚を失いかけ、三半規管が狂ってしまったような吐気が襲ったことは今も覚えている。 


 初めて帰郷した時、中央線の車窓から最初に見えてきた故郷はやはり八ヶ岳の峰々だった。新宿発夜行だったから、ちょうど夜明けごろで山頂付近だけが朝日に輝いていた。それは風景として単にきれいというのではなく、僕自身の生き方や18歳の選択を温かく包みこんでくれる存在との再会だった。


 高校生時代、国語教師が板書していた一節の詩がふと浮かび、初めてすっと自分の中に入ってきた。


ふるさとの山に向ひて言うことなし 

ふるさとの山はありがたきかな。 (石川啄木)


小さな森暮らし。週末の八ヶ岳から

写真家小林キユウが週末遊牧民の日々を写真と文章で綴っていきます。